GoogleやAmazon、Wikipediaの創業者が受けた教育として、世界中で知られており、藤井聡太棋士の活躍により、日本でも一躍注目を集めたモンテッソーリ教育。
この、モンテッソーリ教育の生みの親、マリアモンテッソーリとは、どんな人だったのでしょうか?
今回は、マリアモンテッソーリについて解説します。
参考文献は以下の通りです。
型破りな幼少期
マリア モンテッソーリは、1870 年 8 月 31 日にイタリアのキアラヴァッレという町で生まれました。
父親のアレッサンドロ・モンテッソーリは厳格な元軍人であり、母親のレニルデ・モンテッソーリ(ストッパーニ)は良家の生まれの、読書好きな女性でした。
マリアは、地元の小学校に通った後、数学の勉強をするために工業系の学校への進学を希望するようになります。
当時(あるいは現代でも)女子が工業系の学校へ進学することは珍しいことで、両親も教師になるための勉強をすることを勧めていました。
しかし、マリアは自分の信念に従って、工業学校に進学します。
そうして、工業学校で学ぶうちに、生物学にも興味を持つようになったマリアは、今度は医師を志すようになります。
工業系の学校に行くというだけでも随分型破りな行動でしたが、医学部といえばそれ以上に、完全に男子だけのものであったため、彼女の父親はこれに強く反対しました。
また、当初は、学校側からも入学を拒否されていました。
しかし彼女は諦めず、とうとう学部長との面談をする機会を取り付けます。
さて、バチェリ博士ははっきりと、マリアの望みを遂げる方法はない、とマリアに申し渡しました。すると彼女はいんぎんに礼を述べ、心を込めて握手した後、静かにことばをつぎました。「私は必ず医学博士になってごらんに入れます。」マリアは一礼すると部屋を出ていきました。
E.M.スタンディング
『モンテソーリの発見』
幼少期から自分の信念を貫く意志の強さを持っていたんですね
イタリア人女性として初めて医学博士に
1890 年、マリア・モンテッソーリは物理学・数学・自然科学を学ぶためにローマ大学に入学し、2 年間で卒業しました。
そして、この実績が認められ、彼女はついにイタリアで最初の女性としてローマ大学医学部に入学することを許可されるのです。
入学を認められ、医師になるための勉強を始めたマリアでしたが、初めての女子医学生である彼女の進む道は険しいもので数々の困難が待ち受けていました。
まず、直面したのは「男子の領域」に踏み込んできたマリアに対する、男子学生からの差別や偏見の目です。
マリアは、何カ月にもわたって不当な嫌がらせを受けましたが、屈することなく、むしろ立ち向かっていく芯の強さを持っていました。
また、マリアはその優秀さが認められ医学部の奨学金を獲得したほか、個人授業を行って収入も得ていました。
そういった姿を見た男子学生の態度はだんだんと変わっていき、マリアのことを尊敬する学生も増えていきました。
そして、もう一つの大きな困難は、解剖の実習でした。
何時間も死体と向き合う解剖作業は精神的に負担が大きいものですが、当時は男女が一緒に解剖を行うことが禁止されていたため、マリアは誰もいない部屋で、(時には夜遅くの暗闇の中で)作業を進めなければなりませんでした。
これは、強い心を持ったマリアにとっても、かなり苦しい試練だったようで、「こんどはこれほど難関の多くない、もっと別の職業で身を立てよう」と医師の道を諦めそうにもなります。
しかし彼女は、こういった苦難を乗り越え、1896 年7月10日、ついに、イタリア人初の女性医師となりました。
この功績は瞬く間に広がり、イタリア中で知られるようになり、同年9月にはベルリンで開催された国際女性会議でイタリアを代表するよう求められます。
この会議の演説では、女性は男性と同等の賃金を受ける権利があるべきという、社会改革の論文を発表しました。
女性の地位向上にも貢献したんだね
運命的な発見
1896 年 に大学を卒業した後、ローマ大学の精神科クリニックで助手として働き始めます。
このクリニックでの仕事の一環で、発達上の問題を抱えるこども達に関わる機会があり、これがマリア・モンテッソーリの生涯にわたる子どもの研究のきっかけとなりました。
発達上の問題を抱えるこども達の保護施設を訪問する中でマリアは、子どもたちのお世話をしている女性が、「子どもたちは食事が終わるとすぐに床を這いずり回ってパンくずをあさる」といって嫌悪感を感じているということを耳にします。
しかし、モンテッソーリの見方は違っていました。
モンテッソーリは、おもちゃどころか、家具のひとつもない監獄のような部屋を見回して、「こども達は、食べものを求めているのではなく、感覚刺激と手を使った活動を求めているのだ」ということに気付きます。
知性を発達させるための手を使った活動を本能的に行う子どもたちを目の当たりにした彼女は、子どもの発達に関する本を読み尽くすようになり、特に、19 世紀初頭のフランス人医師、ジャン・マルク・イタールとエドワール・セガンの画期的な研究に注目しました。
こども達を観察しながら研究を続けていたマリア・モンテッソーリは28 歳のとき、トリノで開催された全国医療会議で演説するよう依頼されます。
そこで彼女は、精神的・感情的な障害を持つ子どもたちは決して非社会的な存在ではなく、健常児と同等、もしくはそれ以上の教育を受けるべきであると主張しました。
彼女は翌年の全国教育会議でも同様の演説を行い、これがきっかけとなって、発達上の問題を抱える子どもたちのための公立学校が設立されることになりました。
公立学校の施設長としての2年間
マリア・モンテッソーリはこの公立学校の施設長として、1899年から1901年の2年間、自ら指揮を執りました。
この学校は、様々な障害を持つ子どもたちを受け入れていたため、彼女はこれまでコツコツ積み上げてきた障害児教育に関する研究を、実践に移すことができました。
日中(朝8時から夜7時まで)は子どもたちを指導・観察し、夜はデータの分析や教材の準備を行うという繰り返しのハードな2年間はマリア・モンテッソーリが医師から教育者へと変化したターニングポイントであったといえます。
マリア・モンテッソーリは当時を振り返って以下のように語っています。
あの2年間の実践は文字通り最初の、そして真の教育学の学位でした。
E.M.スタンディング
『モンテソーリの発見』
そして、1901年にモンテッソーリはこの学校を離れ、大学に戻って教育哲学と人類学の研究に没頭します。
その後、1904 年には、ローマ大学で文化人類学の教授となったほか、女子大学でも講師として授業を受け持ち、さらには、空いた時間に医師としての仕事もこなすという何とも多忙な日々を送っていました。
マリア・モンテッソーリは1898年にひとり息子のマリオを出産しています。
マリオはローマ大学の精神科クリニックの同僚で、障がい児のための学校を一緒に運営していたジュゼッペ・モンテサーノとの間に生まれた子どもでした。
マリアは仕事を続けたいという思いから、結婚して家庭に入ることを拒み、未婚のまま、密かにマリオを出産します。
マリア・モンテッソーリとジュゼッペ・モンテサーノは「お互い誰とも結婚しない」という約束をしていましたが、家族からのプレッシャーに負けたジュゼッペは別の女性と結婚してしまいます。
裏切られたと感じたマリアは職場を離れることを決意しますが、未婚の母であったマリアはわが子を乳母に預けることを余儀なくされます。
彼女は、頻繁にマリオを訪ねましたが、関係は公にできず、マリオが、自分の母親がマリアであると知ったのは、大きくなってからでした。
それでも、マリアとマリオの間には強い絆があり、マリオは生涯にわたって母親の仕事をサポートしました。
子どもの家の誕生
この当時のローマには、サン・ロレンツォというスラム街がありました
犯罪が横行する街の悲惨な状況を見かねた管理団体が、住民に住宅を提供しましたが、多くの家庭では、日中両親が仕事で不在にしており、未就学の子どもたちが暴れまわるという新たな問題が発生しました。
そのため、街の管理者は誰かに日中子どもの面倒を見てもらう必要があると考え、そこで白羽の矢が立ったのがマリア・モンテッソーリでした。
モンテッソーリは障害児を対象に行っていた教育を一般の子どもたちにも試してみたいと常々考えていたため、快く役割を引き受けました。
そうして、1907 年 1 月 6 日に「子どもの家」が開かれます。
マリア・モンテッソーリは、子どもの家に、それまでの研究で生み出したさまざまな道具や教材を用意し、その中でも子どもたちが夢中になったものだけを残しました。
モンテッソーリが気付いたのは、自然な発達をサポートするように設計された環境に置かれた子どもたちは、自分自身を教育する力を発揮するようになるということでした。
彼女は後にこれを自己教育力と呼ぶようになりました。
モンテッソーリ教育の環境に身を置いた子どもたちは、どんどん良い方向へ変わっていき、日中暴れまわらなくなるどころか、5 歳の子どもたちは読み書きまでできるようになりました。
このニュースはすぐに広まり、モンテッソーリがどのように実践しているかをひと目見ようと沢山の人が見学に訪れました。
1908 年の秋までに、ローマに 4 つ、ミラノに 1 つ、計 5 つの 子どもの家が設立されたほか、イタリアのお隣、スイスでは、多くの幼稚園が子どもの家へと変わっていき、モンテッソーリ教育は急速に普及していきました。
教師養成コースの開始
1909 年の夏、マリア・モンテッソーリは約 100 人の学生を対象に、初めてのトレーニングコースを行いました。
この時の彼女のメモは1909年に出版され、1912 年には『モンテッソーリ・メソッド』として翻訳され、アメリカでノンフィクションのベストセラー2 位になりました。
その後すぐに、20 か国語に翻訳され、教育の分野で世界中に大きな影響を与えました。
日本語版は『子どもの発見』です。
1912 年 12 月 20 日、モンテッソーリの母親が72 歳で亡くなり、翌年から、14 歳の息子マリオと一緒にローマで暮らしはじめました。
この頃から、モンテッソーリは、多くの国で講義を行い、彼女が開発した教育アプローチを広めることに専念するようになります。
第一次世界大戦前と第二次世界大戦中にも、彼女はアメリカに3度訪問し、モンテッソーリ教育に大きな関心が寄せられました。そのうち2回は彼女の息子のマリオも同行しました。
1917 年末にマリオが最初の妻であるヘレン・クリスティと結婚した後、モンテッソーリはスペインのバルセロナに定住しました。
マリオと妻ヘレン、そして4人のこどもたち(マリア・モンテッソーリの孫)が形成期をそこで過ごしました。
マリア・モンテッソーリの最年少の孫であるレニルデ・モンテッソーリは、2000 年までAMIの事務総長を務め、その後、5年間会長を務めました。
戦争の影響
マリアは、スペインで、幼児教育へのアプローチの研究開発のためのセンターを作りたいと考えていましたが、ヨーロッパでファシズムが台頭すると状況が一変します。
ドイツでは1933年までにすべてのモンテッソーリスクールが閉鎖され、彼女の本や肖像は焼かれてしまいます。
モンテッソーリが「イタリアのモンテッソーリスクールをファシスト青年運動に組み込む」というムッソリーニの計画への協力を拒否してから 2 年後の 1936 年には、イタリアのすべてのモンテッソーリスクールが閉鎖されました。
その後、スペインでも内戦が起こり、モンテッソーリはバルセロナの家を離れ、マリオと子どもたちと一緒にイギリスに渡ります。
その夏の終わりにはオランダへ行き、銀行家の娘であるエイダ・ピアソンの実家に滞在しました。
マリオは後に、エイダと結婚することになりました。
インドでの時間
1939 年、マリオとマリアはインドへの旅に出て、マドラス (チェンナイ) で 3 か月のトレーニング・コースを実施した後、各地で講演を行いました。
その後第2次世界大戦が勃発すると、敵国イタリア人としてマリオは抑留され、マリアは自宅軟禁されてしまいます。
そして、彼らはなんと7年近くインドに滞在することになったのでした。
しかし、この7年間、東洋の文化に触れ、ガンジーやネルーといった偉人との交流を深めることになり、結果的にはマリア・モンテッソーリにたくさんの気づきを与えてくれるものとなりました。
モンテッソーリ教育の代表的な理論のひとつである「吸収精神」はこのインドで体系的にまとめられています。
モンテッソーリの晩年
1946 年、マリアとマリオはようやくオランダに戻ることができます。
エイダ・ピアソンの元で生活していた孫たちとも再会しますが、彼らは再びインドに戻ります。
その後、マリア・モンテッソーリは1949年、1950年、1951年と、ノーベル平和賞にノミネートされ、1951 年にロンドンで開催された第 9 回国際モンテッソーリ会議がマリア・モンテッソーリの最後の仕事となりました。
1952年5月6日、オランダのピアソン家の別荘で、息子のマリオに見守られながら亡くなりました。
マリア・モンテッソーリの死後
彼女の死後も、息子のマリオ・モンテッソーリや、孫のレニルデ・モンテッソーリの活躍によりモンテッソーリ教育は発展し続けます。
2020年3月にTIME誌が行った、過去100年の「今年の女性」を選出した企画にもマリア・モンテッソーリの姿があります。
過去100年の「今年の女性」には、2022年6月に在位70周年(プラチナ・ジュビリー)を迎えられたイギリスのエリザベス女王や、ミャンマーの活動家であるアウンサンスーチー氏、日本からは緒方貞子さんなど世界中の著名人が選出されています。
また、Extraordinary Women(偉大な女性)というBCCのドキュメンタリーシリーズの13話にマリア・モンテッソーリが取り上げられています。
本編:Extraordinary Women: Maria Montessori
ココ・シャネル(第2話)やオードリーヘップバーン(第5話)、アガサ・クリスティー(第11話)に並んで取り上げられており、マリア・モンテッソーリの世界的知名度の高さがうかがえます。
また、2020年にはマリア・モンテッソーリの生誕150周年を記念して2ユーロコインが発行されました。
まとめ(参考資料)
ということで、今回はマリア・モンテッソーリの生涯にスポットライトを当てて解説しました!
マリア・モンテッソーリはもちろんモンテッソーリ教育の生みの親ではありますが、他にも各方面で才能を発揮していたということがわかります。
- イタリア人初の女性医師
- ローマ大学教授
- 障害児教育のパイオニア
- ノーベル平和賞3度ノミネート
マリア・モンテッソーリについて、詳しく知りたい方には、以下の本もおすすめです。
マリア・モンテッソーリの弟子E.M.スタンディングの著書。マリア・モンテッソーリの生涯を時系列で追っているのに加え、フレーベルとの比較も行っています。
マリア・モンテッソーリとパートナーや息子との関係性について無深く迫っている一冊。